泉谷しげる編

 記念すべき第10回は、「お待たせしました!」と言ったら、「誰も待ってないぞ!!」と返され率98%?=『泉谷しげる』さんです。日本フォーク・ロック界に残した足跡や作品の芸術性は至高と思いますが、今やTVドラマの禿げたお父さん<お爺さん?>役者(かつては天性の犯罪役者?と称えられたのに・・)、ないし粗野な言動の個性派タレントの1人(武田鉄也の同類)、としての認知度が一般的である感は否めません。「勿体無い」話です。私自身も、泉谷第4隆盛期を待つ間に幾歳月・・、皆さん、再度彼の作品を見直そうではありませんか。
 この人の良さは、日本パンク・リアル・フォークの雄にして、ストリートロック詩人でもあられる、そのざらついた存在感と近未来を抉り出す時代感覚の鋭さ。劇画や映画製作の世界にも垣間見られる「はみ出した都市生活者の臭い」や「近現代化の向う先にある無機質な世界観」を抜群のスピード感とイマジネーションで描く才気にあるでしょう。
 その作風は、デビューした70年代前半と、80年近く、そして復活した90年前後と、大きく3隆盛期に分かれ、特に「ロック化」以降は、その頭髪状況(かつてモジャモジャ、今薄毛)くらい違います。一般的には、70年代の「春夏秋冬」「春のからっ風」など、労働者階級の汗と悲哀をストレートに歌った、“いかにも”のフォークソングが人気ですが、ロック化後の泉谷作品の方がより高みを極めたのではないか、という気がします。
 そういう意味では、もし70年代末期以降の泉谷を、「役者・タレントとしてしか知らない」方がいらっしゃれば、それは大いなる不幸・欠落。是非この機会に、後半の泉谷も耳にしてみましょう。と言いつつ、私自身も90年代半ば以降(「奥尻・おまえら募金しろ!ひとりフォークゲリラ」辺りから?)の作品は正直フォロー不足です。ゴメンナサイ!!

 

1.'80のバラッド ('78年作品)
・ベスト1はこの1枚。日本のブルース・スプリングスティーンとも喩えられた疾走感ある乾いた叫びは、当時としては画期的、いな革命的な作品。エイジとレイコのラブ・ストーリーを基盤に映像感覚を帯びたトータル性を色濃く発酵させている。泉谷ディスコグラフィーの要所毎に登場する加藤和彦御大が率いたグアム録音の功績も多大で、姉妹編の「都市のランナー」と並び、日本フォーク・ロックの歴史に残る金字塔と位置付けられる。

1)翼なき野郎ども
・この歌が、泉谷の作品群を通じた代表作であることを(通の間では)疑う者はいない(有名過ぎて、の天邪鬼は居るか)だろう。「春夏秋冬」も名曲ではあるが、「火力の雨降る街角 なぞの砂嵐にまかれて 足とられヤクザいらつく 午後の地獄 ふざけた街にこそ家族がいる」と打ち出すこの歌の方がより鋭く、時代を切り取って永久化した、と信じたい。「ああ いらつくぜ ああ感じるぜ とびきりの女に会いにいこう」。

2)裸の街
・イントロが震える思いの、痛いほどにリアルな労働=生活歌。「窓の外は黒い街 ありもしない社会の 口笛が聞こえる 俺はうろつき街の流れ者 別の国のためのネジと鉄パイプになる」。私自身はブルーワーカーではないが、「ありもしない社会」との捉え方に恐ろしいまでの凄みを感じる。「俺にできることは一日中 女を愛せることぐらいで・・」を含め、感じない方は、きっと幸せな人生なのだろう。

3)デトロイト・ポーカー
・「デトロイト・ポーカー」って何だろう、と思いながら謎は解けずに27年<笑>。「街の頭の中を指す数がそろわねエ」と歌われる泉谷架空のゲーム。「エイジ 青い奴らが手引きする 赤い街のゴミになる気かよ」「エイジ 遠い窓の外に写る カードを咥えたまま 生まれたならず者」と、主役の一人、「エイジ」のイメージが具象化された歌。

 

2.IZUMIYA-SELF COVERS ('88年作品)
・80年代も終盤、忽然と復活した泉谷は、IZUMIYAとして自らの過去の作品をカバーする、その名もズバリのアルバムを発表。ベスト盤のようで、その実ベスト盤をも上回る新たな名盤として、時代にその名=生きた証、を刻み込んだ。最高水準のミュージシャンを揃えて大人の重厚ロックを展開したLOSER(村上ポンタ秀一、吉田建、下山淳、仲井戸麗一)とも、史上最強のコラボレーション。

1)地下室のヒーロー
・この詩は凄い。「見ろよあの女の子 食事が下手で汚い 親父がだめなのさ 嫌いなんだぜー!」と歌の詞を超えている感も。「少女が描いた地下室のヒーロー 死んでゆくパワーと 果てるスピード 地下に生まれたヒーロー 狂う少女はこの時と 身体の想いのすべてを吐いて 深い息を吸い込むのだ 地下のステージへ 地下のステージへ・・・」。現代社会の若い男女の報われない精神構造と大人との断絶に肉薄。

2)流れゆく君へ
・騒乱後のラストナンバーに相応しい、美しいスローバラード。「流れゆく君の粒のひとつまで つかんでみたい 河の流れは血よりも速い 流れゆく君の体」と切り出し、「変わり過ぎるより 確かに響く 生きる言葉の速さがいいぜ~」と結ぶ展開は、普遍的思想と愛を表現し、完成された短歌のような趣もある名曲。

3)土曜の夜君とかえる
・この歌は説明不要、の部類で、ご本人も、「メロディと音のニュアンスを楽しめ」とのたまわっている。「あついロックのかおりが まだ耳にただよう 今夜きみとかーえる 今夜きみとかーえる」。あついロックの時代と、(陳腐ながら)青春の息吹きを、回顧しているように、私には聴こえる。

 

3.ライブ泉谷!王様たちの夜 ('75年作品)
・時代を象徴する事件、でもあったフォーライフ・レコード(75年設立)の記念すべき第一弾は、末っ子ヤンチャ坊主=泉谷の2枚組ライブアルバムだった。結果論として、拓郎や陽水が、衰退(中だるみ停滞)期に入る中、この男は元気満開。フォークな泉谷とロックな泉谷がラストショーとイエローという2バックバンドの演奏と相俟って、名盤を産み落とした。上記2.との甲乙は付け難く、この新旧2枚のベストアルバムは貴重(ランキングに入れざるを得ない出来)である。

1)遥かなる人
・サビは「大地の下から空に向かって 光を追うように草は伸びる 見てみなよ 僕らに似合う景色がない」。師匠岡林の金色のライオン時代の歌に似ている。隠遁した岡林宅に押しかけて農作業を手伝い、苗ごと地中に埋めて呆れられた都会青年の体験が、この歌に活かされているかは謎<笑>だが、「そうなんだよ君は いつもぼくの後ろに居る 君のそばに居るのはぼくじゃなくて ぼくの影なのさ」と、男女の埋められぬ隔離間が見事に表現されたフォーク・ロックの代表作。

2)陽が沈むころに
・センチメンタルな中に、内省的で厭世観すら漂わせる、アナザーサイドオブ泉谷の趣。「花や鳥に囲まれ 川の流れに耳を向け 過去のキズを癒し のんびり暮らしたいと思うが」。若くしてこの達観が、凡百のフォークシンガーとは格の違いを見せ、美的な感動作。「振り返ってみるほど 僕は生き延びちゃいない」。当時まだ20代前半。

3)街はぱれえど
・労働者=普通の若者の鬱屈した思いと虚しい恋愛感情、仕事への義務感と失望を「朝仕事場に来た時 あいつの目を一番気にする あいつ次第だもんな 怒られたくないから」と、実にリアルに表現した小品。「春夏秋冬」時代の作品群の中でも、本作や「ねどこのせれなあで」「終わりを告げる」などは光り、素朴な実相を歌わせて右に出る存在はいなかった。「街はぱれえどさ だけど誰も 誰も誘いに来ない」。この孤立感も泉谷の真骨頂。

 

4.光と影 ('73年作品)
・一般的評価に拠る泉谷全盛期(70年代)を代表するオリジナル・アルバム。加藤和彦とサディスティック・ミカ・バンドの全面的なサポートを得て、レゲエにまで挑戦するなど、楽曲・演奏両面から当時の最高水準にあった。真に遺憾なことに、「マスターテープ紛失」とやらで、2曲はオリジナルと別版に差し替えられ、曲順も変更してCD化されている。真の再発を、死ぬまで待つ!

1)里帰り
・泉谷らしからぬ、さりげない感じの小品ながら、奥深く人生を達観したかのような味わいが感じられる。「うららかな春の陽射しは 待ちわびた顔に照りつける 前のことは洗い流せと 思い出に塗り替える」。男性か女性か、老いか若きか、いずれにも通用する人生の真理と心理が、ここに表現されている。「忘れたいことは山ほどあるし 忘れたくないことも多い」。確かに。

2)国旗はためく下に
・スケールの大きなロック・ナンバーで、高度成長期が終焉を迎えつつある中、目標を見失った我が国「日本」と「国民」の限界感を象徴的に歌い上げ、「いらつき」を表現することに成功した傑作。「貧しき者は 美しく思われ 富あるものはいやしく ユメを語るは禁じられて ただただ 割り切れと・・」。私が学生時代には軽音楽部(実質ロック部)の部室から連日流れており、後に小室等がカバーした。「国旗はためく下に集まれ 融通の効かぬ 自由にカンパイ!」。

3)君の便りは南風
・友との別離を通じて、自分の行く道を確かめる趣のレゲエ・ナンバー。「君との別れは思い出を作り どこにいてもよみがえる 世渡り上手の君を 僕はいつもうらやんだ」「綱渡りの毎日に 随分人が変わる 落ち着きのないその日暮らしに 君の便りは南風」。世俗的で真っ当な道を歩んで成功(幸福)を得ている友に対し、「約束どおりに君と僕は 違う道を歩き続けてる」と、最後の矜持は我にあり、との心境か。

 

5.吠えるバラッド ('88年作品)
・「'80のバラッド」から10年。フォーク(ロック)シンガーとしての知名度を失って久しかった80年代後半、どっこいド根性とばかりに復活し、一世を風靡した作品。2.で前述したLOSERに加え、忌野清志郎、桑田佳祐といった豪華友人筋の協力も得て、未だ見ぬ都市生活者の孤独と幻覚をハードな「男ロック野郎の世界観」で再構築。地響きする低重音「鋼の演奏」が骨身に沁みる。

1)野生のバラッド
・退屈で退廃的な都市生活の中にあっても潜んでいる「野生」を、正に「吠えたバラッド」の代表曲。冒頭から「野生のごとく 叫んでられたら このマチにも用がなくなる ここにいる以上 眼つきを変えて 震えて眠る夜を知る」と定義し、「何てお前に伝えよう 騒ぎの好きな俺について Oh 何てお前に伝えよう 静かに暮らすいらつきを」と、自身の根源テーマを衝く作品。なお、このアルバム内では、新宿のビル(ベランダ)から街の喧騒をバックにアカペラで魂の雄叫び。別途ベスト盤でバンドバージョンが楽しめる。

2)果てしなき欲望
・これまた、都会でのやり場のない軋轢と焦燥感を「今のうちにしなけりゃ 後がないのさ俺には 知らずに立ってるここは 誰かの捨てた崖っぷち」と、形象化。ややルーズなフォーク・ロック調のバンド演奏が快感、の名曲。「今からでも遅くはないかい 今からでも間に合うのなら走るぜ チャンスをくれた分の絶望が 体を摩るようにまとわりつく アア それでもいいぜ 俺の分だけ君を抱く」。中高年もまだまだ元気を出さねば、と涙。

3)あらゆる場面で
・なんだか近未来的・不可思議的・不条理的歌世界。「求めてはげしく 地の色ざわめく あらゆる場面と都市への迷路で 俺とお前が入れ替わる 夢と現実を入れ替える Oh なんというイズム」。<イズム>とは泉谷のライム(韻)なのだろうか・・・。シンプルで低重心のロック演奏もお見事なエンディング・ナンバー。

<次点>
ベストアルバム的作品を2、3位に入れた呵責から次点を選ぶと、初~中期の中から、「春夏秋冬」「黄金狂時代」を押さえて、自らがプロデュースした3作目、「地球はお祭りさわぎ」を挙げておきたい。個人的にも、最初に買った泉谷作品(当時LP)で、愛着あり。

それにつけても、エレックが悪いのか、フォーライフが悪いのか、これら作品群の再発状況は悲惨(マスターテープ紛失による曲の差し替え、ジャケットの変更、価格設定・・etc.)な状況。いやしくも、エレック中興の祖にして、フォーライフ(4つの命)の御1人。歌謡曲歌手やお笑い芸人と一緒にするな!。強く、善処方求めたい。

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PS.
・前回「小室等編」で、以下のように記しました。
「現役アーティストとして再評価すべし」、ということだと思います。せめて生きてるうちに<笑>。今度は「コムロヒトシ的」と言う映画。如何でしょうか?
―― ああ、でもきっと、私たちは、いつか小室等や高田渡の死亡記事を目にする日が来るのでしょうね・・<しんみり>。

・ついに片方の「その日」が来てしまった(05.4.16 高田渡さん永眠)ことを、今更ながら深く静かに悼みます。黙祷。

 本企画も10回を持って「一仕事終えた感」が無いでもありませんが、次回は、もし書くとしたら、斎藤哲夫か遠藤賢司、ないしは先祖帰りして掟破りのボブ・ディラン教祖辺りが有力かな。