新宿歌舞伎町


 新宿歌舞伎町に一人の詩人が住んでいた。場所は雨露を凌ぐのがやっとといった、悪臭に満ちた新宿大ガード下だ。彼の詩集はいつも百円で売られていた。ホステス連れの酔った客がボロをまとって正座した彼の前にお札を放り投げて立ち去ろうとすることもあるが、彼は必ずその客の後を追う。そして二,三枚の鉛筆書きの紙片を渡そうとするのだ(つり銭を渡すことはなかったようだが)。日本でも怠惰なものはおよそ理解されない。落ちこぼれだ。伊勢丹の包みを載せた車の家族連れが「お勉強しないとああなるのよ、いい?」という冷たい視線を送られる詩人の姿には胸が痛む。同じように池袋で放浪していた詩人山之口貘さんの色紙は多くの町の人々の手元に残り、数十万円の値がついているが、当時の彼の紙片は路上のごみになったろう。

 僕はその詩集を百円で手に入れ、京王デパートの換気扇室外機が吹き付けるベンチで読んだ。その詩には、予想に反して社会を怨む言葉がまったくない。森高千里の詩のように簡明で歯切れのいい言葉が並んでいるのだった。「幸福」「明日」「夢」「愛」といったありきたりの単語が呪文のように繰り返されているのだった。それが逆に悲しくてならない。乳製品の缶コーヒーが苦くて仕方なかった。

 幸福を失い、それが二度と戻らないと気づいた時、初めてその人の幸福論が生まれるとしたら(これは寺山の言葉だったか?)、一生気づかなくたっていい。それともIF(もし)を考えらればいいというのか。来年の。そしてずっと未来のIFを。いや、考えられるはずはない。昨夜も銀行のシャッターの前に眠るお婆ちゃん前を、ケーキの包みをぶら下げて赤い顔で素通りして帰路に向かった僕だ。考えられるはずはない。考えるはずは…。

 

 長い影が 無数にのびている
  風は眠ったように 今のどかだ
 誰もが兎になって 眼を閉じ
  性格の節々が 疼き出したぞ
 何が死だ! 生でもないくせに!
  気狂いになる時から生きるぞ
 穴の中には 幾億の群れ 群れにポトリと 彼が居た

 理解ある老木が 2本も オオッ 倒れた
  失意が黒々と天までも昇る
 海には無言の光が降り
  野という野には一面桔梗
 持つものもなく 咲くことに咲く
  年月が頭上を歪んですぎた
 凍てついた 窓を放つと 天を見上げる 彼が居た

 スタスタと人も時空も歩み去る
  赤くなったり黒くなったりして
 鳩に豆蒔く子らの前
  無味な煙草を かさねている
 遠くでメリメリ 青空が裂けた
  裂けたことだけが頭にとけた
 ふらついた腰に自分を乗せて そうだそうだと首ふる彼が居た