荻窪銀座にある古い喫茶店は吹き溜まり。
二階へと細い階段に吸い込まれる客は、みんな一人ぼっち。
中には蓋を閉じたままのピアノ。
その上に積み上げられた『スウィング』と金魚鉢。
みんな相手にされやしない。
二匹の金魚もいつも水面と水底とに離れ、相手の顔を見ようともせず、赤い尾びれをただ振っている。
夕暮れ時。
僕は待ち合わせの相手が来ないからぽかんと空いた向かいの席を見ながら、サービス価格のブルマンを飲んでしまった。
窓から雨音とバスが忙しく行き来する音を聞いている。
さっきまで咳きごんでいたしなびた老人は、腕組みしてじっと目をつぶったまま。
テーブルの上には黄色いプラスチックの洗面器と盛り上がったタオルの上に老眼鏡。
奥の席では赤シャツの青年が慎重に葉書を書いている。
何度も溜息をつきながら。
レコードはいつから止まったきりなんだ?
今日はマダームは休みなんだろうか。マダームは本当に北原白秋の孫なんだろうか。
ガラス窓の向こうにはラッシュアワーでバスが行く
あのバスから降りてくる
君の姿が見えてくる
緑の扉に銀の縁
坂道の途中のこの茶店
初めて一緒に来たときに
なぜか寂しそうだった
君が座った白い椅子に僕の知らない思い出があるなんて
今初めて知ったけど
そんな思い出を隠していたなんて
五月の窓を開けるとチャリンと音がする。
雨はあがっているよって振り返ると、葉書の上に覆いかぶさって、青年は泣いていた。
気が済むまで泣いておこうか。
でもねえ、雨はあがったよ。
ひょっとして虹が出ているかもしれない。
急いで大口あけた赤ポストに葉書を届けなよ。
なあ爺さん、あなたもそう思うよね、と心で話かけようとすると、老人はいらいらした手でレシートを持って立ち上がる。
若いんじゃろが、また次があるじゃろが、たいしたことではない、甘えるな、といった顔でちらっと回りを見渡すと、どすどすと階段を怒ったように下りて行った。